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魚肉ソーセージ事始。 [企業史・広告史]

@スーパーやコンビニなどでよく見かける、魚肉ソーセージ。一般家庭の手軽なおかずの材料としてなくてはならない食材である。

健康にもよいと人気の魚肉ソーセージ。このソーセージが何時、何処で、どんな魚を材料として生まれたか、知っている方はそんなにいまい。この食材の材料は、鯵(アジ)肉をかまぼこを作る要領で練り物状にしたもので、これをオレンジ色の「ライファン」と呼ばれる素材でできたケーシングに詰め、高温殺菌して作るのだ。

@これを最初に売り出したところは、愛媛県は八幡浜市にある「西南開発」という食品会社。1949(昭和24)年、同社の前身・西南開発工業組合が鯵肉を使って最初の魚肉ソーセージ「スモークミート」を作ることに成功した。この成功を受けてか、2年後の1951(昭和26)年、西南開発と社名変更して生産体制を整え、大阪の学校給食などに供給されていた。品質が非常に安定していたことから、東京を中心として全国に販売網を持つ明治屋と提携し、一躍全国区となった。

@「スモークミート」の成功に続き、同じ年の10月には日本水産がマグロ肉を材料にした「ツナソーセージ」を売り出し、続いて大洋漁業(現・マルハ)も魚肉ソーセージを発売した。1954(昭和29)年、ビキニ環礁で行われた水爆実験によりマグロ漁船・第5福龍丸が被爆し、それゆえの風評被害が皮肉にも幸いし、魚介類の価格が下がってコスト削減になり、水産各社とも魚肉ソーセージの生産に力を注ぐようになった。

@魚肉ソーセージは、そのまま丸かじりしてもおいしいだけでなく、キャベツなどといっしょに炒めたり、お弁当のおかずにしたりなど、お手軽な豚肉や牛肉の代用食材として各家庭に浸透していった。


@畜肉の代わりにマグロや鯵などの魚肉を使ったハムやソーセージは、実は大正のはじめ頃から何度も構想されてきたものだという。長年の研究が報われ、構想がやっと現実化したのは1935(昭和10)年、当時の農林省の清水亘がマグロを利用したプレスハムの試作に成功したが、あいにくそのあと例の戦争になり、研究がストップしてしまう。

@先述の西南開発は戦後の食生活の欧米化を予想して、かまぼこのように魚肉を材料としたソーセージを作れば、日本人の好みに合うのではないかと考え、魚肉ソーセージの開発に着手した。当時の瀬戸内海では捨てるほど鯵が水揚げされていたから、この鯵肉を使って作ればよいとひらめいた。

@地元・愛媛で培ったかまぼこ作りのための練り技術を応用し、1年間の試行錯誤の末、鯵肉と豚肉を混ぜて練り上げ、味付けをしてライファンに包んで成型し、高温殺菌して完成させた。

@鯵の骨や内臓を取り除き、石臼を用いて塩・砂糖・香辛料などとよく練り合わせ、滑らかなすり身を作ってライファンのケーシングに詰めて高温で殺菌。すり身がボイルしてケーシングの中で固まり、ソーセージが出来上がる。

@西南開発はこうして確立した技術を他の食品会社にも惜しげもなく(?)公開したので、何処の会社でも魚肉ソーセージを作れるようになり、各社で競争が激化していった。


@その後、高度経済成長時代に入り、電気冷蔵庫が普及しだすと、日持ちのしにくい畜肉のハムやソーセージが普及していった。結果、魚肉ソーセージはそれらの代用品として見られだすようになった。さらに1970年代後半、魚肉ソーセージ業界に受難の時が訪れる。

@当時使われていた防腐剤「AF-2」について発ガン性、催奇性が指摘された。1979年のことである。業界は大打撃を受けた。消費者は魚肉ソーセージを嫌うようになった。この受難が魚肉ソーセージの製法を大きく変えることになる。

@機密性を高めたケーシングを使い、高温高圧で殺菌するレトルト処理を行うなどの製造方法を確立したのである。こうして受難を超えた魚肉ソーセージは、再び安心・安全な食材として各家庭に歓迎されるようになった。

@平成の世に入り、世界中で牛海綿状脳症(BSE)が影響していると見られる“クロイツフェルト・ヤコブ病”患者が多く発生した。さらに輸入肉にBSEを引き起こすとされた部位が混じっていたりなど、人々が畜肉への信頼を失い始めた時、魚肉ソーセージは「ヘルシー!」「安心安全!」な食べ物としていっそう注目されるようになった。

@こうした市場のニーズを受けて、各社はそれぞれ、DHA(ドコサヘキサエン酸)入りの商品やカルシウム入りの商品などを立て続けに発売した。子供向けのイチゴ果汁入りソーセージや、野菜入りの物も出るなど、ヴァリエーションも広がっている。今までどおりのシンプルな魚肉ソーセージも人気は健在である。

@誰の記憶にもある、赤い包装、ケーシングに包まれた魚肉ソーセージ。包装の金具を咥え、ケーシングを剥いて、ピンクのソーセージをかぶりつく。塩味のきいた風味。よみがえる、ピンク色のチープなソーセージをおいしそうにかぶりついた幼い日の思い出。魚肉ソーセージは、近年高まる一方の健康志向と相俟って、今後も愛され行くことだろう。



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ケロリン。(後編) [企業史・広告史]

@昨日の記事の後編です。


☆ケロリン桶の事始~銭湯系とコラボ~☆


@銭湯やゴルフ場の浴室、温泉施設などで見かける黄色い桶。子供が幾ら蹴っ飛ばしても、腰掛けとして使っても全くびくともしない。この桶は、その驚くべき頑丈さから別名「永久桶」とも呼ばれているとか。

@この「ケロリン桶」について、その事始を、出来得る限り簡潔に述べる。…それは1963年、東京オリンピックの前年のこと、内外薬品に睦和商事という会社の当時の営業スタッフ(現社長)から「湯桶にケロリンの広告を入れてみませんか?」と持ち掛けられたのがそもそもの始まり。

@このケロリン桶が登場するまで、銭湯などの桶といえば、檜やヒバなどの木板を金属の箍で丸く留め、底に丸い板をつけた木桶が主流だった。しかし1960年代から最近増殖の温床となりやすいなど衛生上の問題が取り沙汰され始めていた。

@そんな時期に「湯桶を使った広告は、多くの人が目にするはず」ということで話がまとまり、丈夫で軽いポリの桶の内側に丸いレイアウトで「頭痛・神経痛・生理痛・歯痛・ケロリン・内外薬品」と入れた。ちなみに初期の桶の色は黄色ではなく半透明の白であった。今は「頭痛・生理痛・歯痛・ケロリン・内外薬品」となっている。

@この桶は最初、東京駅八重洲口にある『東京温泉』に置かれた。以来、瞬く間に普及していき、今では国内津々浦々の銭湯、温泉施設、ゴルフ場の浴室、スーパー銭湯などに置いてある。また、銭湯が少なくなった今も、年4~5万個のペースで納入され続けている。

@「ケロリン」の名入りグッズの中で、この桶はもっともよく知られたものであろう。私は時折「東急ハンズ」や「LOFT」などのバスグッズコーナーを訪れることがあるが、そこにケロリン桶を始め、例の黄色いケロリン名入りグッズを見ると、何故か笑ってしまうのだ。お風呂マットや、バスタオルやフェイスタオル、キーホルダーが作られ、売られている。

@兎にも角にも、黄色い地に「ケロリン」の赤いロゴがでかくて目立つのだ。こういう銭湯系とコラボレーションした、見事な広告戦略により、ケロリンの名は、戦後においても、押しも押されもせぬものになったのだ。


☆ケロリンのCMソング~メディア利用の広告戦略~☆


@内外薬品はまた、ラヂオやTVを使ったコマーシャル戦略をも展開した。その中で有名なものが、下に紹介するケロリンのCMソングである。


   ・ケロリンCMソング・

   作詞 サトウハチロー

   作曲 服部良一

   歌 楠 トシエ


 1. 雪空 雨空 くもり空
   
   頭のいたみに 歯のいたみ
   
   どうにもならない そのつらさ
   
   ケロリン一服  お水でグィー
   
   ケロリン  ケロリン 

   青空 晴れた空

 
 2. となりに向いに うらの人

   こしのいたみに 神経痛

   いそいで 教える 窓と窓

   ケロリン一服  お水でグィー
  
   ケロリン  ケロリン
   
   どなたも 笑い顔


 3. おととい昨日に また今日も
  
   つづくいたみに 部屋の中
   
   ちっとも晴れない 胸のうち

   ケロリン一服  お水でグィー

   ケロリン  ケロリン
 
   唄までとんででる


@最近はこの短縮ヴァージョンが、時折ラヂオやTVで放映されている。
 

☆まとめ~ケロリンの未来~☆

@以上、ケロリンについてここまで記してきたが、これほどまでに(グッズまで出して!)名前や効能が浸透した大衆薬も珍しい。内外薬品は最近、ケロリン以外にもけっこう姉妹品を研究・開発し、販売しているそうな。時代の変化に伴い、最早ケロリン一辺倒ではやって行かれなくなったのだ。イブプロフェン製剤の「ケロリンIBカプセル」、水なしでも飲める「ケロリンチュアブル」、かゆみを押さえる皮膚用薬品「ダイアフラジン」シリーズなど、病状や好みに合わせてさまざまな薬品を売り出している。

@ケロリンはこの先、あのレトロなパッケージのままに、効能も変えずに、製造販売されていくだろう。キャッチフレーズの通り「のんでよくきく頭痛薬」故に、この先もずっと愛されつづけるに違いない。

ケロリン。(前編) [企業史・広告史]

@頭痛・歯痛によく効く『ケロリン』。レトロなパッケージが特徴の、毎度おなじみ駱駝(キャメル)色の散剤である。

@かつては所謂『富山の置き薬』の一種として、他の配置医薬といっしょに、各家庭に配られていた事もあった。今は手軽にドラッグストアや一般専門薬局の店先で買える、すっかりポピュラーな存在となっている。

@『ケロリン』といえば、忘れてはならないのが、銭湯の桶。黄色いプラスティックの桶の底に

 『★★★頭痛・生理痛・歯痛★★★ケロリン★★★内外薬品★★★』

 と、上から順番に横書きされたロゴが特徴の、コレクターには堪らない素敵なアイテムとなっている。

@さて、そんな『ケロリン』だが、誕生の秘話を語る前に、まず製造元・内外薬品のあらましから書き起こさなくてはならないだろう。


☆内外薬品株式会社の誕生~ケロリン前史~☆


@1902年、20世紀にはいって2年目の時に、ケロリンを生んだ内外薬品株式会社は創設された。もともとは、武田、塩野義など名だたる製薬業界がひしめく、大阪は道修町(どしょうまち)から直に仕入れた原料薬品を、富山市内外の漢方薬製造会社に卸す、薬種卸問屋であった。

@当初は売り上げを順調に伸ばして、景気がよかったが、現代のように、進んだ経営術がまだ身に着いていなかったという、所謂「寄り合い所帯」であったために、まもなく経営破綻する。早くも内外薬品の未来に暗雲が立ちこめはじめた、その時だった。

 『ここまでやったものを…もったいないではないか。みんなで応援するから、是非引き受けてくれないか』

@上の言葉を発したのが、当時の経営陣から頼まれた3番番頭の笹山林蔵という人であった。


☆ケロリンの誕生~開発秘話~☆

@1925年、内外薬品は改めて個人事業からリスタート。笹山林蔵は、次第に「置き薬に何か、新しい着想を加えてみたい。お客さんが喜ぶ、新しい薬はないだろうか…」と考えるようになっていく。

@眼をつけたのは、その頃流行り始めていた、揮発性の水薬。額につけるとスーッと心地よくなるシロモノであった。これはいける!と思った林蔵は仏蘭西からアスピリンを輸入し、息子で薬剤師の順蔵と共に、文字通り社運を賭け、お客に歓迎されるような新薬の研究開発にとりかかった。ところが・・・!


@嗚呼何という不運か!事もあろうにその新薬の製造過程で“ドガーン!!”と爆発事故を起こしてしまった。この事故を教訓としたか、揮発性の新薬開発をやめて、散剤(粉薬)の開発にシフトした。水薬は運ぶ時如何しても重くなるので、どのみち置き薬には向かないとの判断もあった、という。この判断が、後に同社に幸運をもたらすことになる。

@アスピリンに肉桂を混ぜて作った散剤は、それまでの漢方薬と違い、効き目が早くて、しかもよく効く!と人々から評判となった。この散剤こそ「ケロリン」である。名付け親は研究開発の指揮をとった笹山順蔵である。名の通り、ケロリと痛みが治る「ケロリン」は、人々の心を、しっか!と掴んでいった。

@「ケロリン」は大々的な広告戦略により、売上げを伸ばし、人々の間にその名が浸透していった。「のんでよくきく頭痛薬」というキャッチフレーズの売りこみを含めた当時の広告戦略は、その頃盛んになり始めたボクシングと野球の試合との、タイアップ作戦であった。

@ボクシングでは、人気ボクサーの出る試合には必ず「ケロリン」の巨大タレマクが下がったものだったという。またボクサーが纏うガウンにも、「ケロリン」の4つ文字がついていた。

@1934年、ベーブ・ルースを始めとするメジャーリーガーと日本センバツ選手団との、野球史に残る大イベント、日米野球の試合では、これまた「ケロリン」の巨大タレマクが、総立ちの観客を出迎えていた。

@このように、ケロリンが全国区になっていく中で、内外薬品は、常にそれに甘んじない、油断しない姿勢を取り続けていた。笹山順蔵は、商売人である前に薬剤師であった。
 「売れれば売れるほど、吟味しろ」
 「最高の原料を使え、苦情が出るようなものは止めろ」
 「営業担当者、製造担当者は、知ったかぶりをするな」

@上の三つの言葉はすべて笹山順蔵の口癖であった。これらの中に、薬剤師としての自信と責任、品質へのプライドが含まれていた。厳しく徹底した品質管理を行うことで、大胆なPRも自信をこって繰り広げることができたというわけだ。


☆「ケロリン」類似品との闘い~商標権問題と取り組む~☆


@戦前に続き、戦後も売薬として絶大な人気を誇るケロリン。内外薬品も3工場でフル操業を続けても需要に追いつかない日々が続いていた。

@が、ここに、大きな“壁”が!ズバリ「商標権」問題である。当然乍ら、ケロリンもこれには、長いこと散々悩まされた。あの『メンソレータム』でさえ、「にせもの」、即ち「類似品」が雨後の筍の如くポコポコ出現したのだから。そういや、小さい頃はよく薬の広告などに「類似品にご注意下さい」と書いてあったような記憶がある。

@当の内外薬品でも、このままではイカン!ということで、篠山順蔵の弟・梅治が立ち上がり、問題解決の任にあたった。

@…「ケロサン」、「ケロゲン」、「ケロリブロ」、「ケロチン」、「ケロトン」、「ケロリ」、「ケロリー」…これらはすべて実際に発売された類似品の名前である。中には全く本家と同名の「ケロリン」というものまである。

@庶民生活研究家の町田忍さんのサイトにも、これらケロリン類似品の図版がアップされている。ので、興味がある方は「町田忍」で検索の上、御覧下さい。

@梅治は、類似品の製造販売元に対し、数度に亙って注意広告を新聞に掲載した。その結果、類似品は徐々に減っていき、完全に同名のものは姿を消し、「ケロリン」の名は不動のものとなった。

(後編に続く)

参考:内外薬品株式会社のサイト「メデシン・ロード 薬の道」より

キンチョール伝 [企業史・広告史]

☆面白CMとキンチョール~「ルーチョンキ」から「どうでもいいでしょ~」まで~☆



@今、豊川悦司主演のCMで、話題をまいている「長持ちキンチョール」と「キンチョールジェット」。「どうでもいいでしょ~」という女性のフレーズが時代のけだるさを表現している。言うまでもないが、キンチョールは、御存知KINCHO(大日本除虫菊株式会社)が生み出した、殺虫剤の超定番、ミリオンセラーだ。

@クレージーキャッツ・桜井センリの昔(1966年)から、キンチョールのCMには面白いものが多い。何と言ってもキャッチフレーズが笑えてしまう。

@1966年のCMでは桜井センリが商品を逆さに持ち、「ルーチョンキ!」のフレーズを世間に流行らせ、`83年では郷ひろみと柄本明が「ハエハエカカカキンチョール」のフレーズで一世を風靡し、同じく郷が「ムシムシコロコロキンチョール!」と連呼するCMでは、このフレーズが何時までも頭の中に残った。近年の作品でも、大滝秀治&岸辺一徳出演の「水性キンチョール」のCMでは、「くだらん!お前のいうことはくだらん!!」(←たしか、こう言ってましたよね?)と絶叫する大滝氏が印象的だった。


☆誕生と略歴☆


@このように長年に亙り面白CMでお客の心を惹き付け、売り上げを伸ばしてきたキンチョールだが、その誕生は意外に古い。

@既に「蚊取り線香(金鳥香)」を売りだして、押しも押されもせぬ有名企業になっていた大日本除虫粉(当時)。この会社が1934年4月に売り出した殺虫液が「キンチョール」であった。ネーミングの意味は「金鳥のオイル(殺虫油)」だという。因みに発売の翌年、大日本除虫粉は社名を変更、今の大日本除虫菊となった。

@会社が商品展開に先駆けて、この殺虫液の本格的製造の為の工場を兵庫県に新設し、量産体制を完備するほど、キンチョールは社運と期待を掛けた商品だった。

@しかし、国内では、当時すでに「フマキラー」(大下回春堂、現在のフマキラー株式会社)、「アース」(木村製薬所、現在のアース製薬)などライバル商品が幅を利かせており、キンチョールはこうしたライバルの後塵を拝する存在でしかなかった。

@当時の殺虫剤は、まだエアゾールなるものが開発される以前であったので、手押しのポンプ(噴霧器)に薬剤を入れて押し出し、噴霧するというタイプが主流だったからだ。フマキラーもアースも、このタイプの噴霧器をすでに採用していた。

@しかし国外では上に紹介した他社商品が普及していなかったので、ここではキンチョールは結構ヒットしていたという。当時の「朝鮮」はもとより、旧満州国、中国などで「蚊取り線香」とともに売り上げを伸ばし、貿易事業の一翼をになっていたというのだ。


☆躍進の始まり☆


@キンチョールが日本国内でも売り上げを伸ばし始めたのが1966年。上に書いたように桜井センリの「ルーチョンキ!」のフレーズが流行った年のことだ。

@当時、KINCHOの社内では簡便エアゾールカン容器の研究が進められていた。それが完成し、早速キンチョールに採用されたことが、この製品がヒットする土台を作った。カンの上にあるボタンをポンと押すだけで薬液がシューッ!と噴き出されるエアゾール式キンチョールは、そのお手軽さが受け、忽ちヒット商品の仲間入りを果たした。

@この年にTV放映されたCMが例の「ルーチョンキ!」である。このCMは大当たりし、注文が殺到して出荷量が前年を7~8倍も上回るという、まさに殺虫剤の定番への躍進を遂げたのであった。

@それから間を置かずに、他社商品もエアゾール方式を採用し、手押しポンプ式はそれ以後姿を消していったようである。


☆エアゾール式への歩み☆

@今ではどの製品も採用しているエアゾール方式のカン。最初のものが現われたのは1952年頃だというからそれなりの歴史がある。エアゾール方式とは、気化した液化ガス、または圧縮ガスの圧力により、内容物を容器の外にて自力で霧状にして噴き出させる方式のこと。既に米軍では南方のジャングル戦で使うのを目的に、この方式で殺虫剤を開発していた。

@当時KINCHOではこれを自社製品にも使えないかと考えた。そこで`52年、キンチョールにこの方式を採用して売り出した。しかし何分最初のことで、コストは高く付くは、ノズルは詰まるは、中身が漏れるは、といった欠点が次々と明らかになった。

@KINCHOはそれでも諦める事無く、何がなんでも“ものにする”のだと、改良に改良を重ね、`55年に改良タイプを発売。だがそれでも、天然除虫菊由来の殺虫液(←当時のキンチョールの液は、天然の除虫菊から抽出されていた)では、搾った残りカスがノズルにつまりがち、などといった問題が残った。そこで1965年頃、除虫菊の殺虫成分を合成した薬剤を研究の結果作り上げ、この問題をクリア。こうして現行のキンチョールとなったのであった。


☆キンチョールのグレードアップ~高品質・安全性の両立と追求~☆


@初期の殺虫剤は、天然除虫菊から抽出し、人畜には安全性の高い「ピレトリン」という成分が用いられていた。戦後、1940年代後半、このピレトリンの立体構造の一部が解明され、「アレスリン」の合成に成功する。1958年にはピレトリンの全体像が明らかになり、完全に除虫菊の殺虫成分が合成できるようになった。こうして合成された殺虫成分が「ピレスロイド」(ピレトリン類似化合物)と呼ばれるようになった。

@これ以後も、更なる高効能と安全性の追求の為、日夜研究が重ねられ、現在では十種類もの成分があるということだ。現在発売されているキンチョールには、高い即効性とノックダウン効果に優れた「フタルスリン」、確実な致死効果を誇る「レスメトリン」が採用され、より早く確実に、害虫を退治できるようになった。


☆キンチョールのヴァリエーション、そして環境への気配り☆


@一口にキンチョール、と言っても、用途や害虫のタイプ別に、様々なヴァリエーションがある。これは他のブランドの殺虫剤でも変わらないが…。毎度おなじみ「ハエ・カ用」、しつこいダニに「ダニキンチョール」、アリンコに「アリキンチョール」、蛾やむかでなど“イヤな虫”に「イヤな虫専用キンチョール」など、結構なラインアップがある。家庭でも事業所でも、用途に合わせて、何タイプか用意した方がいいだろう。

@キンチョールは、環境への気配りも相当なものであるらしい、なんでも、スプレーに使う噴射ガスにも、環境への配慮を昔から見せていたそうな。当初、使われていた噴射ガスは塩化ビニールガスであった。が、KINCHOは早々に使用を中止し、発ガン性が問題になる前に無害なガスに切り替えていたという。おそらくKINCHOでは、いち早く塩ビガスの毒性を見抜き、「こりゃあかん、使うのやめ」と言って、他より早く使用中止に踏みきったのだろう。

@同じく噴射ガスとして使われていたフロンガスも、KINCHOは1975年にアメリカでオゾン層の破壊による環境問題が取り上げられ「フロン禁止処置法案」提出の報を聞くや、これまた他所に先駆けて使用を中止した。このお蔭で、同業他社が国内でフロンが問題になった時に槍玉に挙げられた時も、実害を受けずに済んだということだ。2001年には火気への安全性を高める為これもいち早く「水性キンチョール」を発売。常に他社に先駆けて、先手を打って優れた商品を世に問う。KINCHOの先進的姿勢は、実は創業以来のものだった。


☆鶏口となるも牛後となるなかれ☆


@KINCHO創業者・上山英一郎氏は「鶏口となるも牛後となるなかれ」の格言を信条(policy)にして、日本で初めてセルビア原産の除虫菊(虫除け菊)の栽培に成功し、他社に先駆けて、蚊取り線香「金鳥香」を発明した。「金鳥(=KINCHO)」ブランドもこの格言に由来している。

@そして同社は、(ほぼ)この格言のままに、画期的な製品を世に問いつづけてきた。「蚊取り線香」などでおなじみ雄鶏の頭マークの下に今も残る○に上山の印。KINCHOは今でも、創業者の魂魄を忘れていない。

@きょうもTVをつけると、KINCHOの笑えるCMが流れている。「うちのだんなぁはぐぁてまら~うまぁれ」の「カトリス」のCM、「長持ちキンチョールとキンチョールジェット、どっちがええか?」と豊川悦司が女性ダンサーに聞くCM…。しかし、その笑える映像の裏側に、同社の先進の姿勢が隠されている。









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「仁丹」あれこれ。 [企業史・広告史]

@きょうは、言わずと世に最早知れた懐中薬「仁丹」についていろいろ書いてみたいと思う。全て記憶による記述になるので、若し違っていたらお許し下さい。


仁丹~近代懐中薬の始祖~


@明治38年(1905)、梅毒の特効薬「毒滅」、匂い袋「金鵄麝香」、美白剤「美白丸」、ルーデサック「やまと衣」などの販売元、森下南洋堂から、画期的な丸薬が発売された。


@「仁丹」。儒教の教えからとったとされる教育的ネーミング、ベンガラでコーティングされ、阿仙薬や肉桂(シナモン)、薄荷(ミント)など、16種の生薬から作られたその中身。しかし、仁丹の名前を天下に知らしめたのは、何と言っても商標の「ナポレオンハットに大礼服、胸部に「仁丹」と大書された額を掲げた、立派なヒゲのおじさんの顔」だった。


@この商標と中将湯の姫さまマークは、戦後、コカコーラが入ってきて、そのロゴにとって変わるまで、町のあちこちに見られた、というようなことが、天野祐吉さんの本「もつと面白い広告」(大和書房刊)に記されている。それほど、以前は我々の周囲に浸透していたマークだったのだ。

@仁丹を入れて持ち歩く詰め替えケースは、創売当初からデザインを凝らしたものが多く、初期の丸型容器をはじめ、鏡付きブック型ケース、アールヌーヴォーデザインのケースなど、いろいろと面白いものが出ている。ので、ツウにとってはこのうえないコレクターズ・アイテムとなっている。

@また仁丹は、素手にはやくからアジア各地に輸出され、タイランドあたりでは今でも赤粒の仁丹が売られているところもあるそうだ。

@仁丹の粒がそれまでのベンガラでなく、銀箔でコーティングされ始めたのは、如何やら昭和にはいって間もなくのころ(1929年頃)らしい。これで仁丹は今の銀粒姿になった。

@この頃から詰め替え容器もセルロイド製のものが誕生し、当時の満州国の国旗を象った「満州容器」や、地球儀を象った「防共容器」など、時代色を反映させたケースが現われる。(しかし、この頃はまだベンガラコーティングの“赤ダマ”仁丹も発売されていた)
なお、仁丹の会社は、1940年代にそれまでの森下博薬房から森下仁丹に社名変更した。

@第二次大戦で甚大な被害を受けた森下仁丹は、戦後の統制時代を経て、仁丹や歯磨などの製造を開始した。昭和30年代、初めて新しいプラスティックを使った丸型ケースが登場、社史によると『仁丹ケースの歴史に一時代を画す』とされる。その後、スリムパック(1995)、メタルケース(1992~現行)など個性的なケースが登場した。

@そのあと、様々な紆余曲折を経て、仁丹を入れて持ち歩くケースは何度もモデルチェンジを繰り返してきたが、中身の仁丹そのものは、コーティングがベンガラから銀箔に変わった以外は、基本的な処方は創売当初からあまり変化していないのではないのか。初め口の中でスースー、あとで苦味がくる仁丹。飲んだあとはお腹が何故かすーっとする。健胃作用のある生薬がやはり昔から使われているんだなァ。なお、現在では、仁丹は医薬部外品扱いになっている。他にうめ仁丹、グリーン仁丹などミンツ系の姉妹品がある。

@仁丹のTVCMは、これもやはり昭和30年代初頭から。♪じんじん仁丹じんたかたったった~、というフレーズが頭に残る曲が印象的だったという。因みに作詞・作曲は日本のCMソングのパイオニア、三木鶏郎。(←『鉄人28号』白黒TVアニメ版の主題歌も書いた人でもある)

@不肖ながら、ワタクシは、嘗ては銀粒仁丹よりも、うめ仁丹のほうが大好きでした。子供の頃良く買ってもらって、口に含んでう~ん、あまずっぺぇ~!なんて言ってた記憶がある。

@なお、森下仁丹は、現在「仁丹」シリーズで培ったコーティング技術をさらに発展させ、液剤を小さな丸い柔らかいカプセルに何重にも包んで入れるハイテクな技術を確立し、その成果は同社で今発売されている「ビフィーナ」(ビフィズス菌カプセルコーティング品)などに活かされているということだ。

※参考=森下仁丹歴史資料館、天野祐吉「もつと面白い広告」(大和書房)

毒滅のビスマルク。 [企業史・広告史]

@ある時、明治期に発行された新聞を見ると、いかつい、威厳あるハゲのオヤジの横っ面に筆書き太字でドーン、と


   「毒滅」

 とある。


@これを見てう~ん、何てオーバーな、大時代な商標なんだ!と思った。これが「毒滅」商標との初めての出会いである。『毒滅』とは書いて字の如く『毒を滅ぼす』、つまり梅毒や淋疾といった性病を粉砕する為のクスリという意味をこめている。それにしても、迫力がありすぎる…。

@1900(明治33)年当時、『金鵄麝香』、『美白丸』などを発売していた森下南洋堂。『毒滅』は、当時「花柳病」といわれていた、梅毒・淋疾の特効薬として、ここから発売された。

@『毒滅』発売開始当時の新聞(明治33年発行)の幾つかの新聞を見ると、そのころ有名だった医学界の泰斗たちの名前を掲げ、このクスリはこれらの人々によって処方、推薦を受けましたなんていうメッセージを発している。ど真ん中に威圧的な例の商標。


@この商標のモデルは、何とプロイセン(独逸)の鉄血宰相・ビスマルクである。当時のことだから本人に無断で彼の肖像を使って商標を拵えている。今だったら肖像権違反で何かと物議を醸すかもしれない。それはさて擱き、この『毒滅』、ビスマルク効果も手伝ってか、森下南洋堂創業以来初の大ヒットを飛ばし、同社を一流製薬業に押し上げるきっかけを作った。

@1910年に画期的な駆黴薬(梅毒淋疾を治療する為のクスリのこと)『サルバルサン』が発見される10年も前のことである。

@『毒滅』に、はたしてサルバルサンと同等の効能があったかどうかは大いに疑問だが、とにかく梅毒淋疾に苦しみ喘ぐ人々にとっては、最後の希望の光であったに違いない。


@それにしてもこの…いかつ過ぎるビスマルクの商標!如何にも梅毒淋疾にテキメン効いてしまいそうだ。ある意味、精神的な効能はあったかもしれない。当時は日露戦争に勝利したこともあり、強い軍人や政治家に大変人気があった時代だった。『毒滅』のビスマルクは、そんな時代を象徴するアイコンでもあった。

@この毒滅発売から僅か8年後…森下南洋堂にとってシンボルとなるべき大衆売薬が登場する、そう、あの『仁丹』なのだ。カイゼル髭に礼服、ナポレオンハットに『仁丹』と書かれた額を掲げた威厳ある人物は、時々、『仁丹将軍』の名で呼ばれたりもする。

@しかし、森下仁丹創業者の森下博氏に言わすと、これは「将軍」ではなくて「クスリの外交官」だということだ。あのナポレオンハットに金モールの礼服は当時の外交官など、高級官職が見につけていた礼服のスタイルだという。この商標も『クラブ洗粉』の項でも取り上げたように、時代の変化に合わせて微妙に変化しながら、明治、大正、昭和、平成と四つの時代を生き抜いて、今に残っている。と共に『仁丹』それ自体も、時代を超越したミリオンセラーとなった。

@いっぽう、『毒滅』のビスマルクは、1910年代、日本での本格的なサルバルサン系駆黴薬登場(「アーセミン」、「タンワルサン」などの発売開始)と前後して、『毒滅』それ自体と運命を同じうし、次第に大衆の前から消えていった。

@森下南洋堂は、それ以後、「森下博薬房」を経て、現在の「森下仁丹」に改名し、今日でもオーラルケア製品として『仁丹』を発売するほか、ビフィズス菌顆粒『ビフィーナ』シリーズや『青汁』など健康食品の開発・販売に力をいれている。

@そういえば、渋谷の宮益坂に、例の仁丹マークのおじさんがついたビルがあったらしいが、何時の間にか取り壊され、建て替えられていた。何だかなぁ~。

嗚呼、懐かしい「クラブ洗粉」。 [企業史・広告史]

@以前、都内某所の「ロフト」(LOFT)で、花の冠をつけた双子美人商標と、アールヌーヴォーなデザインパッケージが何ともロマンチックな『クラブ洗粉』を発見した。

@実は昔、私もこの『クラブ洗粉』を買い、毎朝起きた後、毎晩寝る前にこれで顔を洗っていた。何処となく懐かしい、しかし高貴な薫りに包まれ、幸せな気分になった。

@明治39年(1906)、中山太陽堂という大阪の化粧品会社が、最初の製品を発売した。この製品こそ、上に紹介した『クラブ洗粉』である。因みに、この中山太陽堂という会社は、現在のクラブコスメティック㈱で、今も本社が大阪にあり、『洗粉』のほかに『クラブ美身クリーム』『クラブホルモンクリーム』などを発売している。

@当時は、顔を洗うための化粧石鹸が普及し始めた時代であった。外国産石鹸が輸入され、それまで品質の悪いといわれていた国内産の石鹸も質のいいものが出回り始めた頃だった。こうした石鹸の普及に伴い、洗粉系の粉末洗顔料は、次第にその存在感を薄くしていった。

@しかし、『クラブ洗粉』は石鹸に劣らぬ優れた洗浄力と芳香で、洗粉系洗顔料の地位を死守した。クラブのお蔭で、洗粉の命脈は保たれたのだった。

@…それにしても1世紀ものなが~い間、人々に愛され続けているなんて、流行り廃りで消えていく商品やタレントが数多あるなかで、100年も消えずに命脈を保っている製品と言うのはそんなに多くはない、と思う。『仁丹』然り、『正露丸』然り、『オイデルミン』然りである。

@10年近く前、都内某所のアンティークショップで、その『クラブ洗粉』の戦前版パッケージを発見し、即座に購入した。現行品とホトンド変わらないデザインは、当時の女性たちの心を動かし、惹き付けるのに十分な訴求力を持っていたにちがいない。

@昔の広告や商品パッケージは、とても手作り感が溢れていて、人間の手の“匂い”がする。今のCMや雑誌のPRを見ていると、如何もCGやらDTPやらを多用しすぎている感が強い。一体何時からそうなってしまったのか、私の考えでは、多分1990年代あたりから、その傾向は強まってきたような気がする(というのは、私はその当時、大手印刷会社に勤めていたことがあったからだ。その当時から、印刷方法のデジタル化が始まり、うちの会社でもDTPの導入が始まったのだった)。

@その時から、広告やパッケージから段々「味」がなくなってきたようだ。人間的な何か、温もりのような味わいが。かわりに流行りだしたのは、CGをのべつ矢鱈に押し出した広告やCM,パッケージデザインだ。カッコ良くなったのはいいけれど、味わいやら温もりがイマイチ、感じられない…。

@100年も続く製品の中には、『仁丹』や『クラブ洗粉』のように、当時のデザインのまま、時代に合わせて勿論、微妙な変化はあるけれど、基本的なデザインを変えずに売られ続けている製品がある。こういう製品こそ、願わくば、何時何時までも、消える事無く、また変わる事無く、残っていって欲しいものだ。

若大将もコークを売っていた。~コカコーラ~ [企業史・広告史]

@小さい頃、当時若者のアイドルだった若大将こと加山雄三が、コカコーラ(コーク)のビンを持って、とくだね!なんて言っているCMやポスターを、何度か見かけた覚えがある。

@その時、私の脳細胞では、若大将とコークのイメージが、彼とエレキのイメージよりも、電光石火の如く素早く、強く結びついたらしい。以来、今も我が頭の片隅では、若大将といえばエレキとコカコーラ、のイメージの痕跡がしっかり残っている。

@19世紀末、USAはジョージア州アトランタで、薬剤師のペンバートン博士により、コカコーラの原液シロップが発明され、当時街じゅうにあったソーダ・ファウンテンのひとつで、従業員が水と炭酸水を間違えてコーラのシロップとブレンドしてしまい、これがかえって「スカッとさわやか!」ということで評判になり、以来、コカコーラはビンや意匠のいくつかの変遷を経て、世界中に広まってきた。

@コカコーラが初めて日本に上陸したのは大正の頃。当時は東京・京橋の明治屋で主に売られていたらしい。ちなみに明治屋は、当時は麒麟ビール、清酒月桂冠などの販売代理店であった。

@大正の頃に上陸した当時は、何ともクスリくさい、ということであまり民間にひろまらず、インテリたちだけの嗜好飲料に過ぎなかった。何故コークがクスリくさいといわれ、好かれなかったかといえば、その頃、日本ではコカコーラとよく似た香味をもつ胃腸薬が市販されていたそうな。

@二度目の上陸を果たしたのは終戦直後、進駐軍とともに果たした。当時は米軍基地内にボトリング(ボトル詰め)工場を直接拵え、PX(現・和光)を通して進駐軍向けに売られているだけだった。そう!再上陸まもない当時のコークは、GIの兄ちゃんたちやその家族の間だけで飲まれていたのだ。占領下の本邦一般庶民には決して口にすることができないアメリカ産まれの憧れアイテムのひとつだった。

@そんなコークが、ようやく庶民も手に出来るようになったのは、1957(昭和32)年。シロップ輸入の許可を得て、東京飲料(現・東京コカコーラボトリング)が発足、190mlのレギュラーサイズの製造販売が始まった。当時は小売店へ直接卸売り販売(ルートセールス)を行っていたが、1日僅か20~30ケース程度の売り上げしかなかった。

@それから少しずつではあるが浸透し始め、1962(昭和37)年には、例の「スカッとさわやかコカコーラ」のキャッチが生まれ、TVCMも製作・放映され、次第にみんなに親しまれるようになっていった。この頃、日本初のドリンク類自動販売機として、赤く塗られたコークのレギュラーサイズの自販機が登場、これは七つのアナにロックされたコークがセットされていた。

@この自販機にコインを入れて、小窓を開け、ロックの外れたボトルを取り出し、自販機の右横についていた栓抜きで王冠をポン!と抜いて、コークの爽やかさを味わうものであった。私が小学生の時分まで、この赤く塗られた自販機は、酒屋サンや御菓子屋さんあるいは駄菓子やさんの店先にドンと置かれていたのだった。

@コカコーラのCMに最初に出たのは、上に紹介した加山雄三だった。「コークと呼ぼうコカコーラ」のキャンペーン(1967)広告で、有名タレントとして一番最初にコークの広告に出た。この後、ピンキーとキラーズ、早見優、矢沢栄吉と、有名人のCM起用は今日まで続く。最近じゃ新製品・コカコーラゼロのCMに安室奈美恵が出ていたりする。

@そのほか、販促キャンペーンは盛んにやっていた。1975(昭和50)年のヨーヨーチャンピオンによるデモンストレーション・キャンペーンをしかけたのは当時のコカコーラ・ボトラーズだった。例の流れるロゴいりのマジックヨーヨーが大人気。チャンピオン達は全国各地でデモンストレーションを行い、また全国からヨーヨー好きを集めてコンテストまで行われた。「犬の散歩」とかヨーヨーの技を覚えている人も多いのでは?そういや、級友たちが駄菓子やなんかの前でヨーヨーを盛んに回していたなァ。

@このキャンペーンで、昭和8年以来廃れていた、日本でのヨーヨー人気が復活していた、と気付いたのは後のことだった。


@…斯様にして、コカコーラは日本国中津々浦々にまで親しまれる清涼飲料となった。もっとも、ココ数年はペプシに押され気味だったコークだが、最近は糖質、カロリーともにゼロの「コカコーラZERO」が発売され、撒き返しをはじめている。ロゴを見るだけでも、コカコーラは伝統と親しみやすさ、ペプシコーラは革新とクールさが前面に出ている。初めて両者を飲み比べてみた感想を思い返すと、コークよりもペプシのほうが若干甘味が強く、ややクスリくさかったりして。
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