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“見世物”にされた芸術家たち。 [雑文]

★ヴィクトル・ユゴー、ピカソ、カザルス、そしてカレル・チャペック。…これらの偉大な文豪、美術家、音楽家のように人間のもつ「権力の魔性」と闘う気概のある人が、日本のクリエイティヴシーンの中に、いったい、どれくらいいるのだろう?

★広告からファッション業界まで、およそ日本のクリエイティヴシーンに出くわさない日はない。カッコイイ、スタイリッシュ、という言葉がまさにピッタリくるような洗練されたディテールを、広告、ファッション、デザインの現場でかいまみることがある。そしてそれらはみな一様に「最先端」の「衣」を纏っている。

★ラフォーレ原宿で先日(2005年10月23日)行なわれた“アートな”イヴェント「TOKION Creativity Now 2005」に出席していたクリエイターたちは、そうした「最先端のクリエイティヴシーンを突っ走っている人」の「衣」を纏った人間だった。そう、一人の“怒れる男”と一部心有る数少ない人々を除いては……。

★その“怒れる男”こと、今各界で注目の脳科学者にして、ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー(脳グループ)の茂木健一郎が自身のブログ「クオリア日記」10/24付のエントリーhttp://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/10/post_d221.html

で、語っていたことの一部をここに引用する。↓


 引用その①:

 過度の一般化をするつもりはないが、当日の会場の雰囲気を一言で言えば、日本の『クリエーター』たちは、自分たちの世界を、他者に対して語る言葉を持たないのである。

 そこにあるのは、仲間うちの“馴れ合い”だけで、“外からの水”が入りこんできてきゅんと緊張する場面がない。(中略)ワインを飲み乍ら落ちついていって、あっ、そうか!と判ったのは、会場のしつらいが全てを語るメッセージだったということ。ソファやチェアが置いてあり、そこでゲストがくつろいで座っている。(中略)――【筆者注①】会場のしつらいが全てを語るメッセージ…。

引用その②:

 つまり、日本のクリエイティヴシーンにおいては、「俺たちクリエイター仲間だから」というクラブに属することが何よりも重要なのであり、会場を埋めた若いクリエイターも「いつかは、あっち側に行きたい!」と憧れるという構図がそこにあって、異質な他者と向き合ってコミュニケーションするなんて話は、最初からないのだ。――【筆者注②】仲良しクラブに閉じこもり、異質な他者とコミュニケーションをしない、要するにきわめて自閉的な構図だったというのか。

引用その③:

 勿論、クリエイター一人一人はそれなりに他者と向き合っているに違いないが、コミュニケーションのスタイルが、仲間内の“それ”になっているところが決定的にダメなところで、作品は知らないが、言葉には、それだけでキックが効いているものは、ほとんど皆無だった。

――つまり、商品にならねぇんだよ。そりゃそうだ。他者と向き合わなければ、キックの効いた言葉なんて、出るわけないじゃん!!

(そして茂木が、会場から引き上げた時に出くわした東大生2人に向かってアジった言葉を4番目に引用する)

 いいか!お前等。今の社会ではあの『クリエイター』たちが一番威張ってんだよ。金も来るし、人々の注目も集めるし、いちばん、自分達の存在意義を問われなくてもイイ立場にいるんだよ。

――世間は、東大とか、工学の研究なんて、気にも止めていねぇよ。お前等が自分の研究を嶽本野ばらみたいな調子で言っても、誰も聞いてくれねぇだろ。

 ファッション業界の内幕、みたいな感じで、研究の話をしても無視されるだけだろ。

――ところが『クリエイター』達はそういうことが許されると思っているんだよ。くだらねぇけど、それが現代だ。

――地上波TVのヴァラエティの構造なんて、まさにそれじゃん。うんざりだけど、そういうのと、闘わないとしょうがねぇじゃん!

 自称クリエイター達の言っていることのくだらなさをちゃんと指摘していかないとダメだね。

――ふざけんじゃねぇよ。何が「ホワイトバンド」だよ!マルクスの「資本論」は資本主義の構造をちゃんと、説明したわけじゃん。【筆者注】(この話の主旨とは無関係だが、宗教は阿片であると言ったのもマルクスらしい)ホリエモンも三木谷も、その上に載っている。

――そもそも、「ホワイトバンド」って何なんだ?ああいうのに意味があると勘違いして躍っている奴等、そりゃあ、生活の中の1つのアイテムとしてはいいけど、俺も洒落でつけるかもしれないけど、それで世界の貧困が無くなる筈ねぇだろ。

――外の世界に対する緊張感が無くなったらお終いだね。きっと、作品も、碌なものが出来ねぇな!‐‐‐(以上、引用全て終わり)‐‐‐


★これほどまでに茂木が、浅はかな日本のクリエイティヴシーンに憤怒の炎をあげている根本的理由――それは、一見「時代の最先端を走ってまーす」というスタイルをとっている日本の「クリエイター」の、あまりにも内向きな態度の中に、この島国に特有の「異質な他者を排斥し、自分達の内輪だけで固まろうとする精神風土」を見抜いてしまったからなのだろう。

★茂木はそれに対し、司会者の立場を忘れるほどに、凄まじい憤りを覚えたのだ。

★自分達の持つ世界を他者に向かって語る言葉をもたないばかりか、異質な他者と丁々発止でとことん語りあおうとしない。そうしたクリエイター達の心の根底にある「精神風土」に、茂木は腹の底から憤激せざるを得なかった。

★このイヴェントがあった日の、前日の「クオリア日記」のエントリーのシメに、

「宇川直宏さんとCreativity Now 2005 に行く。楽しみだ」

と、記されている。おそらく、茂木は、あの会場で、クリエイター同士が丁々発止のやりとりをかわして、自分の言葉で己の世界を語って、互いに異なる他者とコミュニケートすることを何よりも楽しみにしていたから、あのような前日のエントリーのシメになったのだろう。それが、全くの期待外れだったので、茂木は我慢できなくなり、このイヴェントの司会者なのに怒りを爆発させてしまった。

★仲間内でしか通じない言葉(符牒)でただのべつやたらにベラベラベラベラしゃべって暴走するビッグネームの御歴々、自分達だけで固まろう、固まろうとする“ヌルマ湯倶楽部”的なムード、とにもかくにも全てが「自閉的」。

★そんな会場のムードに対し、茂木はこの島国特有の自閉的な、悪しき精神風土を垣間見てしまったのに相違ない。

★「他者と向き合わなければ素晴らしい、美しい芸術なんて生まれねぇんだよ!」会場の自称クリエイターや若者達に向かって、茂木は、腹の底からそう叫びたかったのだ。


★しかし、実はこのCreativity Now というイヴェントそのものが、一種の「見世物小屋」的イヴェントだったのである。

★つまり、あそこに集っていたクリエイターたちも、司会を担当していた宇川も、そして、会場でクリエイター達に怒り玉を炸裂させていた茂木も、この見世物小屋の「見世物」でしかなかったのだ。

★おそらくこれは、クリエイター達が会場でウダラウダラ語るさまを、お客に見せて儲けをとるというラフォーレの策略で、多数の愚鈍なクリエイター達は勿論、茂木も、心有る一部の人々(どちらかといえば黙ってイヴェントに参加していたクリエイターや一部のお客)も、その策略の中に組み込まれ、見世物にされてしまったのだ。

★無論、茂木も愚鈍の人ではないから、途中でこのイヴェントの形がいわゆる見世物のそれと気付き、それから徐々に怒りのパワーが、彼の逞しい五体の中に蓄積されていった。

★そして「ファッション雑誌などいらない!?」というコーナーで、構成作家のおちまさと等と話していたときにドカーン!とそのパワーを炸裂させた。

★が、それこそ、実は、ラフォーレ側にとってはまさに「この上ない“オイシイ”見世物」でしかなかったのだ。ということは、結局馬鹿を見たのは茂木だったのか。

★しかしやはり、会場に来ていた心有るお客さん達は、こうした茂木の怒りに同感もしくは共感し、「このままでは、日本のクリエイティヴシーンはヤバイ(=大変な)ことになる!」と憂えたのだった(私も無論そのひとりだ)。

★このラフォーレで行なわれたCreativity Now そのものが、クリエイターという名の「客寄せ」を使って、まだ若いクリエイターや志望者を引き寄せて、儲けをとる装置だったのだ。全く、人を馬鹿にしているとしか言い様が無い。


★ある人が最近のラフォーレについて書いたコメントがある。それによると、ここ数年は、単に形だけのラッピング(包装紙)的でうすっぺらな、当世風ファッション感覚のクリエイティヴ支持に廻っているとか。ようするに中身のないカッコだけのクリエイターをプッシュするってわけね。

★おまけにスケジュールを埋めるために、採算あわせの為の、形だけで中身のない展覧会をやっていたり、情報の発信地というよりは、話題の人や物や事を追っかけているだけの存在意義しかないと。

★さらにその話題の人やビッグネームの人ばかり引っ張ってきて、今回のような見世物小屋のようなイヴェントを行なって儲けをとる場に終始している。

★宇川も、茂木も、そしてその他のクリエイターも、こんな上滑りしたファッショナブルの皮をかぶった見世物小屋の、格好の収入の“たね”にされてしまっていたのである。


★私は、こういう「時代の最先端をゆく創造者」の「衣」をまとっているだけで、「異質な他者」と丁々発止でコミュニケートしないで、ただ仲間内でなかよく“ヌルマ湯”に浸かっているような、きょうびの日本のアート/クリエイティヴシーンに、今やすっかり愛想が尽き果てている。

★そんなシーンに接しているより、古典芸術やインディーズに接している方が、ドンナにましであろうか。古典やインディーズのほうがあんなシーンよりよほど「創造的=クリエイティヴ」だ。

★まぁもっとも、私もこのシーンがうすうす、そういう傾向にあるんじゃないかとは思っていたが、まさか、あそこまで酷いものだったとは、茂木の「クオリア日記」10/24のエントリーを見るまで、全く思いも寄らなかった。

★ドクター中松、楳図かずお、嶽本野ばら、板尾創路、辛酸なめ子、山口小夜子、おちまさと、といった目下有名な「ビッグネーム」といわれる、各業界トップクラスの「クリエイティヴ」な人たちが暴走したり、あるいはだんまりを決め込んでしまったりするというのは、やはり、世界に向かってきちっと自己の夢の世界を語れるだけの確かな「何か」を、それぞれ自分の中に持っていない…ということなのではないのだろうか?

★何故ビッグネームなのに、自分の世界を外の他者に向かって語って発信しようとせず、ただ仲間内の符牒だけ使って、ベラベラベラベラしゃべるだけに終始してしまったのか、そうすることによって、外に発信したつもりになっているのだろうか。

★また、会場を埋めていた若いクリエイターたちは、彼等のそういう姿を見て、おかしいとは思わなかったのか(中にはおかしい、と思った人もいるだろう)。

★ビッグネームであればあるほど、自己の中に確たるもの(ポリシイと言い換えても良いだろう)、を持ち、それにもとづき自己の世界を堂々と、外の異質な他者に向かって語り、丁々発止でコミュニケートし、互いに理解しあい、文化と芸術と人間性の豊穣な世界を作り上げ、時には、貧困や戦争、テロリズムなど人間をのっぴきならぬ不幸へと導く源である「権力の魔性=欲望の魔性」と、非暴力とアートの力で真正面から向きあって闘い、地上に文化と芸術の華を咲かせ、平和とヒューマニズムをおおいに宣揚するべきなのではないか。

★歴史をみると、ヴィクトル・ユゴー、カザルス、ピカソ、カレル・チャペック、…みんな「権力の魔性」と向き合い闘った。それゆえ、歴史に永久にその名をしっかりと刻印することができたのだ。

★あのラフォーレのイヴェントに集まった、大多数のクリエイター達に、それが出来るだけの勇気とポリシイのある人達が、果たして何人いたであろうか…。

(文中敬称略)


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